雨DEATH★
こんばんギャーーーーース。
すっかりあたたかくなったので、夜の散歩を楽しめるようになったこの頃でありますが、今日はあいにくの雨になってしまった。
予定のコースの3分の1で切り上げて帰ってきた。
雨に濡れるのがいやだった。
わたくしは好きなお天気は「雨」と答える男です。
夏ならば雨の日は涼しい。むしむしすると言っても静かにしていれば、大体涼しい風が流れているのがわかるでしょう。冬の雨は冷たい。
冷たいが、冬は冬で雨音なんかに耳を澄ませばいい。
そー考えると晴れの日は基本的に当たり前で、とてもフラットな位置にいる。
雨の日はプラス1と言った感じだ。
時には降らないでいてほしい日もある。そんな日はマイナスだけれども、長い年月でみればそんな雨降りはプラマイ逆転の法則だ。思い出になったらよい一日に変わっていた、なんてことは皆様ないだろうか?きっとあるでしょう。
そう、雨の日は特別なのです。
素敵なのです。
本来は。
わたくしの雨の日の思い出として。
あじさいの葉っぱの上を這うカタツムリをいつまでも眺めた事。
我が家のテラスからたれてくる雨だれを止め処もなく掌ですくう事。
樋から流れた雨水が小さな川を作る。その川の様子を眺めている事。この川は庭のいたるところに出来た。わたくしはこの様子をじーっと見ているのがとても好きだった。
全世界が集約されたようで、大地の創造を目の当たりにしているようで好きだった。
そんな箱庭感があった。
今はない自宅裏の森の木々が雨に濡れるとこの時期、喜んでいるように見えた。
わたくしはそんな木々の中に傘をさして入って行き、木の枝を伝い、通常の雨粒よりも大きな音を立てて落ちてくる水滴の音が大好きだった。木々に埋もれた苔むした岩。地面に落ちた落ち葉が腐っていき、その下には小さな虫がたくさんいた。雨で全てが生き生きしているようだった。濡れて輝いているようにも見えたし、耳をすませば沢山の音。音音音。
その生命の音にあふれた森はもう無いのだが。
と、わたしは自分で書きながら、、、、我ながら幸せな幼少時代を過ごしてきたなと思う。
本日ツイッターでもつぶやいたが、自然を畏怖し慈しむ心はそんな時代を過ごせたからだと思う。
人と同じ様に、大気や空、木々も川や海、つまり水は、時には大地でさえ、笑い泣き怒り、生命を育んできたのだと思うよ。
人は文明を進化させて来た、それはわたくしどもの家族や愛おしい人たちの為だったかもしれない。大昔よりも生存率は遥かに高くなったかも知れないが、大地からは遠のいてしまった。
遠のいたら、畏怖を忘れてしまった。
人の計り知れない大きな生命そのものと呼べるような存在を慈しまなくなってしまった。
そのような気が致します。
ジブリですね。
だいたい最近の、まー震災関係だが、想定外想定外想定外想定外言っておりましたが、人間よりも遥かに巨大な力が働くのですから、想定できる訳がない。想定以上さえ当たり前に存在する。その時、人は死ぬしかないのだと思わずにはいられませんね。
想定して、多くの人を守れたら素晴らしいとは思いますが、大自然の御力を想定しきれるのだろうかね。震災で多くの人たちが亡くなられてしまいました。不謹慎かも知れないですが、人は死ぬのだと思わされました。
話が戻りますが、「雨」が好きなわたくし。
わたくしが雨に濡れたくないのは、、、ちょっと過剰であるかとも思われますが放射能だ。
静岡のどこの茶葉だか知らないがなんだかおフランスで廃棄処分だと!?なんたることざますか!?
ここは静岡ですのよっ!!
まったく腑に落ちない。
まったく腑に落ちない。
騒ぎ立ててもしょうがないし、わたくしどもより過酷な状況下でがんばっている多くの方もいるので、わたくしどもの置かれた状況は少しはマシだと思うのだが、「雨」好きのわたくしや同じく「雨」好きのミスター、もしくはミスとミセスに損害賠償して頂きたい。
損害賠償請求だ。
わたくしが猫ならにゃーにゃー怒っていると思うよ。まったく。
まったく、ニャーニャー(怒)だ。
少し残念だ。
まーー怒っていても何も始まらないので、シェルブールの雨傘とか思い浮かべる。
昔見た映画だが、話の筋がとんと……わからない、といいますか、忘れた。
カトリーヌ・ドゥヌーブがとても若くて綺麗だった。
「限りなく透明に近いブルー」のワンシーンでシャーリーと言う少女が雨を告げるシーン。なんてこと無いないシーンだが、わたくしは17の夏にこの小説を読んでから、雨とシャーリーが告げる雨の到来が切っても切れない。わたくしが「レイニー」と言って雨の」の知らせをしたら、きっとシャーリーの事を思い出しているのだなと思ってください。
まーそんな気持ちでいる。
雨は素敵なんだよ。
それでは書き散らかした所であばよっと。
おやすミー太のパイナップルサンド美味しい。